■ 日本古画 ■ 紙本 伝『酒井抱一 筆』 小売業者 朝顔図(極:酒井道一) <230512046>

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(株)賢祥堂美術 オークション
Gallery KENSYODO Auction 
*■ 日本古画 ■ 紙本 伝『酒井抱一 筆』 朝顔図(極:酒井道一) <230512046>*



  作品データ

本紙 105.2cm×38.5cm

軸 201.5cm×53.6cm


経年による古色が加わっています。
詳細につきましては画像をご参照ください。



酒井抱一(1761~1829)


江戸後期の絵師・俳人。
屠牛、狗禅、鶯村、雨華庵、軽挙道人、庭柏子、溟々居、楓窓とも号する。
また俳号は、ごく初期は白鳧・濤花、後に杜陵(綾)。
狂歌名は、尻焼猿人。
屠龍の号は俳諧・狂歌、さらに浮世絵美人画でも用いている。
尾形光琳に私淑し、琳派の雅な画風を、
俳味を取り入れた詩情ある洒脱な画風に翻案し江戸琳派の祖となった。
神田小川町の姫路藩別邸で、
老中や大老にも任じられる酒井雅楽頭家、姫路藩世嗣酒井忠仰の次男として生まれる。
姫路藩主・酒井忠以の弟で、
抱一は兄に何かあった場合の保険として、
兄が参勤交代で国元に戻る際、留守居としてしばしば仮養子に立てられている。
酒井雅楽頭家は代々文雅の理解者が多く、
兄・忠以も茶人・俳人として知られ、
当時の大手門前の酒井家藩邸は文化サロンのようになっていた。
一般に若い頃の抱一は、大名子弟の悪友たちと遊廓に通う放蕩時代と言われるが、
兄の庇護のもと若い頃から芸文の世界に接近していく。
絵は武家の倣いで狩野派につき、
中橋狩野家の狩野高信や狩野惟信に手解きを受けたようだが、
酒井家は長崎派の宋紫石・紫山親子を頻繁に屋敷に招いており、
兄忠以には南蘋風の作品が残る。
また、天明3-4年(1783年-1784年)の頃から浮世絵師の歌川豊春に師事し、
師風を忠実に模す一方で、波濤の描き方には長崎派の影響が見える。
抱一の肉筆浮世絵は10点ほど現存するとされ、
それらは馴染みの遊女を取り上げながらも気品ある姿で描き、
知人の大田南畝が狂詩を加賛している。
抱一の美人画は、
初期の礒田湖龍斎風の作例や末期の鳥文斎栄之に通じる作品を除けば、
豊春作と見紛うばかりの高い完成度を示すが、
自分独自の美人画様式を産み出そうとする関心はなく、
遊戯的・殿様芸的な姿勢が抜けきれていない。
画号も新たに持たず、
俳号や狂歌名を落款に使い回す態度もそれを裏付けている。
俳諧は元服と同じ時期ごろ大名の間で流行していた
江戸座俳諧の馬場存義に入門。
次第に江戸座の遠祖宝井其角を追慕し、
其角の都会的で機知に富み難解な句風を、
抱一はあっさり解き自在に味読、自身の創作にも軽やかに生かした。
書き始めたのは寛政2年だが、
それ以前の句も含む句日記『軽挙館句藻』(静嘉堂文庫蔵)を晩年まで記し続け、
抱一の芸術を語る上で大きな柱となっている。
狂歌においても、当時全盛期を迎え後に「天明狂歌」と呼ばれる狂歌連に深く交わり、
狂歌本に抱一の句や肖像が収録され、
並行して戯作の中に抱一の号や変名が少なからず登場する。
その歌は必ずしも一流とは言えないが、
しばしば狂歌本の冒頭に載せられ、その肖像は御簾越しで美男子として描かれるなど、
貴公子としてグループ内で一目も二目も置かれていたことを表している。
寛政2年(1790年)に兄が亡くなり、
寛政9年(1797年)、37歳で西本願寺の法主文如に随って出家し、
法名「等覚院文詮暉真」の名と、大名の子息としての格式に応じ権大僧都の僧位を賜る。
これは抱一の自発的な発心ではなかったとも考えられるが、
結果として僧になったことで武家としての身分から完全に解放され、
市中に暮らす隠士として好きな芸術や文芸に専念できるようになった。
出家の翌年、『老子』巻十または巻二十二、特に巻二十二の
「是を以て聖人、一を抱えて天下の式と為る」の一節から取った「抱一」の号を、
以後終生名乗ることになる。
また、谷文晁・亀田鵬斎・橘千蔭らとの交友が本格化するのもこの頃である。
また、市川団十郎とも親しく、
向島百花園や八百善にも出入りしていた。
寛政年間の半ば頃から尾形光琳に私淑し始める。
木村兼葭堂が刊行した桑山玉洲の遺稿集『絵事鄙言』では、
宗達や光琳、松花堂昭乗らを専門的な職業画家ではなく
自由な意志で絵を描く「本朝の南宗(文人画)」と文人的な解釈で捉えており、
こうした知識人の間での光琳に対する評価は
抱一の光琳学習にとって大きな支柱になった。
しかも、酒井家には嘗て一時光琳が仕えており、
その作品が残っていたことも幸いしている。
また、光琳在住以降も立林何帛や俵屋宗理など琳派風の絵師が活躍しており、
琳派の流れは細々ではあるがある程度江戸で受容されていたことも大きい。
40代始めの抱一画は、水墨を主体とするものが多く一見派手さに欠けるが、
よく見ると真摯な実験的な試みや地道な思考の後が窺える作品が多い。
文化3年(1806年)、抱一は追慕する宝井其角の百回忌にあたって、
其角の肖像を百幅を描き、そこに其角の句を付け人々に贈った。
これがまもなく迎える光琳の百回忌を意識するきっかけになったと思われ、
以後光琳の事績の研究や顕彰に更に努める。
其角百回忌の翌年、光琳の子の養家小西家から尾形家の系図を照会し、
文化10年(1813年)これに既存の画伝や印譜を合わせ『緒方流略印譜』を刊行。
落款や略歴などの基本情報を押さえ、
宗達から始まる流派を「緒方流(尾形流)」として捉えるという
後世決定的に重要な方向性を打ち出した。
光琳没後100年に当たる文化12年(1815年)6月2日に光琳百回忌を開催。
自宅の庵(後の雨華庵)で百回忌法要を行い、
妙顕寺に「観音像」「尾形流印譜」金二百疋を寄附、根岸の寺院で光琳遺墨展を催した。
この展覧会を通じて出会った光琳の優品は、
抱一を絵師として大きく成長させ大作に次々と挑んでいく。
琳派の装飾的な画風を受け継ぎつつ、
円山・四条派や土佐派、南蘋派や伊藤若冲などの技法も積極的に取り入れた
独自の洒脱で叙情的な作風を確立し、いわゆる江戸琳派の創始者となった。
文化14年(1817年)根岸の隠居所に『大無量寿経』の「天雨妙華」から「雨華庵」の額を掲げたのと同時期、
抱一の制作体制が強固になり雨華庵の工房が整えられていく。
古河藩お抱えともいわれる蒔絵師原羊遊斎と組んで、
抱一下絵による蒔絵制作が本格化するのもこの頃である。
晩年は『十二か月花鳥図』の連作に取り組み、抱一の画業の集大成とみなせる。
文政11年(1828年)下谷根岸の庵居、雨華庵で死去。
享年68。



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